青春シンコペーションsfz


第2章 機械仕掛けのピアニスト(2)


「まさか! 信じられないよ、ハンス先生が人殺しだなんて……」
井倉は手にしていた皿をぎこちなくテーブルに戻した。
「わたしだって信じたくなんかないわよ。でも……」
彩香は俯き、割れて転がったカップを見つめた。


――ハンス・D・バウアー。奴は人殺しですよ
その男は父親に頼まれて、彼女の護衛を任されていると言った。
――どういう事ですの? ハンス先生はわたしにとって大切なピアノの師です。侮辱する事は許しません

その日、彩香は父に呼ばれ、自宅に戻っていた。秋に行われる海外での慈善事業のパーティーに参加する事やテレビ番組への出演依頼の件など、幾つかの事を話し合った後、父からその男を紹介されたのだ。
――初めまして。お嬢さん。私はマウリッヒ・ケスナーと申します。今日から貴女の身辺警護の任を仰せつかりました。よろしくお願いします
そして、その日はケスナーの運転で、彼女を眉村家まで送るように父が命じた。その車の中での会話だった。
――自分は奴のすぐ傍にいたんです
男は癖のある英語で話し掛けて来た。

――それは……どなたかと勘違いなさっているのではありませんか?
紳士のように見えても、その男のスーツの下には何かが隠されている。そんな気がした。
――お嬢さんは信じないと?
男は運転に慣れていた。ゆったりとしたリムジンの車内は快適に整えられていた。だが、彼女は落ち着かなかった。
――そんなお話、聞きたくありません。不愉快だわ
彩香は言った。
――無理もありませんがね。でも、事実ですよ。奴はウサギが好きでしょう?
そう言うと男はにやりと笑んだ。

――それだけで決め付けるなんて……
――まあ、用心する事ですよ、お嬢さん。さ、到着しました。どうぞ
ケスナーは手慣れた様子でドアを開けて見送った。近所の子ども達が見慣れない男と車を遠巻きに見つめている。やはりタクシーで来ればよかったと彼女は思った。


「誰がそんな事言ってるんですか?」
「新しく父が雇った警護の人よ。ドイツから来たんですって……」
「だからって……」
「でも、ハンス先生の事、知ってるみたいだった」
軽く噛んだ唇が微かに震えている。レースの遮光カーテンの向こうから聞こえて来る蝉の声が、だんだん遠くなるような気がした。
「それは……。やむを得ない事情があったからなんじゃないですか? ほら、あなたも知ってるでしょう? ハンス先生が国際警察の仕事をしているって……」
「そうね」
彩香は頷いてみせたが、まだ、何か腑に落ちないような表情をしていた。

「他にもあるんですか?」
井倉が訊いた。
「彼はすべてを偽っていると言うの。髪の色も目の色も……そして、名前さえも変えてるって……」
「でも、彼は本物ですよ。彼の弾くピアノは……。誰であろうとあんな繊細で美しい音が奏でられるものか! 人を殺した同じ手で奏でられはしない! 違うかい?」
井倉は興奮していた。自分でも驚くほど強い口調で言葉を吐き散らした。
「じゃあ、あなたは知っているの? ハンス先生の瞳の色を……」
彩香が覗き込むように訊く。

「青……いや、少し灰色っぽかったかな?」
井倉は思い出そうとしていた。いつも近くにいた恩師の瞳の色を……。その奥に閉ざされた真実を……。記憶の中で、彼は幾重ものレースの羽を潜り抜けて奥に潜む深淵へと進む。そこに広がっていたのは闇。そして、その中央に浮かぶ光彩が煌めいていた。
「髪も目も黒だって、その人は言っていたわ。もしもそうだとしたら、先生は何を隠そうとしているのかしら?」
彩香がそっと割れたカップを拾う。
「危ないですよ。僕が片付けます。大事な指に怪我でもしたら大変ですから……」
慌てて止める。
「もう遅いわよ。わたし達は、とっくに危険の中に踏み込んでしまっているのかもしれない……」
二人は俯いてそのカップを見た。二つに割れたそれらを重ね、幾つか散った小さな破片をティッシュに包んで捨てた後、掃除機を掛けた。

「先生は本当に過去を隠蔽しようとしているんだろうか」
井倉が呟く。
「わからない。でも、もしかしたら、ヘル バウメンは何か知ってるんじゃないかしら?」
不意に背後で鈴の音が響いた。黒い猫のリッツァが来て彩香の脇のソファーに飛び乗ると、緑の瞳でじっと彼女を見上げた。
「それで、ハンス先生はヘル バウメンの事、拒んでるって言うのか?」
彩香が黒猫の頭を撫でる。
「それは定かではないけれど、ここのとこ、お二人は何かこそこそしているし、ハンス先生だってあれほどコンサートツアーに行くのを嫌がっていたのに、急に承諾するなんて妙な気がするの」

白い猫のピッツァも来て井倉の足に絡み付いた。
「そうかもしれないね。でも、まだ疑うのはよそうよ。何も確かな事はないんだ」
「ミャー!」
白猫が井倉を見上げて鳴いた。彼はピッツァを抱き上げて続ける。
「仮に、もしハンス先生が人殺しだったとしても、僕は先生に教えを乞うよ。彼のピアニストとしての実力は本物だ。その実力こそが信じるに値するものだと僕は思うから……」

それから、井倉は食器を片付け、彩香は再びピアノの椅子に座った。猫達が彼女の左右から鳴いたり、体を擦り付けたりして来た。
「遊んで欲しいの? でも、どうしたら良いのかよくわからないの」
2匹の頭を交互に撫でると、彼女は開いてあった楽譜を見た。
「プレストなら問題なく弾ける。でも、実際、速弾きって、どれくらいの速度にしたらいいのかしら? プレスティシモ?」
彼女はメトロノームの目盛りを見つめた。

――奴はウサギが好きでしょう?

――でも、まだ疑うのはよそうよ。何も確かな事はないんだ

「そう。まだ、何もわかってなどいない」
猫達の目はまだ爛々と輝いていた。

――ハンス・D・バウアーは人殺しです

頭の中の声を打ち消すように、彼女は曲を弾き始めた。加速して、更に加速して、限界までスピードを上げて弾く。それでも彼女の指は正確に鍵盤を打ち、乱れる事はなかった。
「彩香さんも頑張ってるんだ。僕も練習しなくちゃ……」
井倉は食器を洗い終えると地下室へ向かった。

――僕はあのスタインウェイのピアノが好きだから……

ピアノの前に座ると、ハンスの言葉を思い出した。

――ピアノと交尾してたですよ

艶やかな漆黒のボディーは確かに魅惑的かもしれないと井倉は思った。が、ハンスが言っているのはフォルムの事だけではないのだとわかっていた。美しく並んだ白鍵を1音弾いてみる。それは硬質で、他の何も寄せ付けない気高さを感じさせる。素晴らしい響きだった。リビングにある2台のピアノは国内の有名メーカーの物だったが、どちらも甲乙付け難い磨かれた硝子のように透き通った音がする。それはたとえるなら双子の妖精。それに比べて地下にあるこのピアノは、繊細でありながら森の奥に住む魔女の妖しさを彷彿とさせる怖さと気品がある。
「そう。一口にピアノと言ってもみんなそれぞれに音が違う。僕にはまだ、このピアノを弾きこなすには経験が足りない気がする」

――森の奥には怪物が眠っているのです

不意に耳の奥でハンスの声が響いた。
「怪物が……」
井倉は身震いして後ろを振り返った。が、そこに怪物の影はなかった。
「あは、いやだな。何を怖がってるんだろ、僕は……」
声に出して言ってみた。が、それはたちまち厚い壁と絨毯に吸われて消えた。

――ねえ、あなたは知ってる? ハンス先生が人殺しだって……

静寂な部屋の中で彩香の言葉が何度も反芻される。
井倉は鍵盤に置いた手に力を入れて抑え付けるように言った。
「違う」
それから、ゆっくりと首を横に振った。
「そんな事ある筈がないんだ」

――森の奥には怪物が眠っているのです

目隠しして来たハンスの手は冷たかった。そして、その甲には十字架が刻まれている。
「嘘だ!」
井倉は否定した。
(僕の命を救ってくれた先生が他の人の命を奪うなんて事あり得ない……。きっと何かの間違いさ。そうでなければ、誰かの陰謀だよ。きっとそうだ。そうに違いない)
井倉は必死にそう自分に言い聞かせた。
並んだ椅子の端にはウサギのぬいぐるみが置かれていた。そして、天井にはスピーカーと照明が吊るされている。そして、遠隔操作が出来るオーディオシステムが前方に配置され、隣のラックにはCDやレコードなど様々なソフトが並んでいる。それらを一通り眺め回してから、井倉は呼吸を整えて言った。

「弾かなきゃ……」
彼は無心になりたかった。何度も繰り返し弾く事で自分が弾くピアノの音だけを意識するよう努力した。

そこは霧に閉ざされた森の深い谷だった。
一寸先さえ見えない深い霧。そこから漏れ聞こえる低い声に、彼はびくっとして思わず手を止めた。
(誰かいる……!)
そこは森ではなく、壁に囲まれた地下のオーディオルームだった。耳を澄ましても、聞こえて来るのは微かな時計の音とエアコンから吹き出す冷たい風の音だけだ。それでも、彼は振り向くのが恐ろしかった。黒いピアノに映る影が得体の知れない恐怖を形作っていたからだ。

「ハンスじゃなかったのか」
それはドイツ語だった。男は作業着のようなモスグリーンの上下を着て、手にはウイスキーの瓶を持っていた。
「あの、あなたは……?」
井倉が顔を強張らせて聞く。
「俺は、アルモスだ」
そう言うと、アルモスは持っていたウイスキーの蓋を開け、瓶を傾けた。
「ちっ! なくなっちまったか」
男は空の瓶を軽く振ってからウサギの脇に置いた。

「あの……アルモスさん……?」
ハンスを知っているという事は、彼の客なのだろう。だが、いつ、ここに入って来たのかまるで気が付かなかった。
「今、ハンス先生はお留守なのですが、よろしければ、上でお茶でも淹れましょうか?」
「茶は結構だ。勝手にやらせてもらうから……」
男が日本語で言う。
「でも……」
「おめえはピアノ弾いてな」
英語なのかドイツ語なのかわからない言葉でそう言った。

「でも……」
井倉は困ったように部屋の中を歩き回っている男に視線を走らせた。
「あの、僕は、ハンス先生の弟子で、井倉優介と言います」
自己紹介がまだだったと気が付いて慌てて言った。
「ああ。知ってる。ハンスがいい拾い物をしたって自慢してたからな」
「拾い物……?」
「おめえ、ピアノの才能があるんだってな?」
「才能? いえ、僕にはそんな……」
井倉が謙遜していると、男が近づいて来て言った。

「弾いてみな」
その言葉に、井倉は困惑して男を見た。
「あの、あなたもピアニストなんですか?」
「いや、俺は画家さ。だが、本物かどうか聞き分ける耳は持ってる。何しろ俺の周りには音楽をやる連中が多いからな」
「そういえば、リビングに掛けられている森の絵は、もしかしてあなたの描いた絵なんですか?」
その絵は深淵の森の奥へ続く道と美しい新緑が描かれていた。光の陰影が見事で、見つめていると吸い込まれそうな気がした。しかも、それは日によって見え方さえ変化した。まるで生きた本物の森のように……。その森の奥にはきっと魔女か怪物が住んでいるに違いない。本気でそう思えた。故に彼はあまりその絵を注視しないようにしていた。心がさらわれてしまわないように……。

「ああ。あれか。日本の夏があまりに暑いってんでハンスが森を欲しがったんだ。奴もドイツの森が恋しくなる時もあるんだろう。奴は夏でも肌を露出させたがらないからな。せめて目から涼を取り入れたいんだろうさ」
「そうですね」
井倉は男が言う言葉を半分程理解して頷いた。
「そんじゃあ、弾いてみな」
男は近くにあった椅子に腰掛けて促した。井倉にはまだ納得の出来ない事が幾つもあったが、相手に有無を言わせない迫力を感じて逆らえなかった。

「わかりました」
井倉は軽く目を閉じ、深呼吸すると、「ため息」の曲を弾き始めた。
しかし、アルモスは曲の途中で立ち上がると急に部屋を出て行った。が、井倉は構わず曲を弾き続けた。するとワインボトルを抱えて来たアルモスがコルクを抜き、瓶に口を付けて飲み始めた。井倉は構わず最後まで曲を弾いた。男は軽くコルクの蓋をはめると、手の甲で口を拭って言った。
「こいつはいいワインだ。だが、おめえのピアノはなってねえな。せっかくの酔いが醒めちまう」
「それって、どういう意味ですか?」
井倉は男の方に身体を向けて訊いた。

「そつなく弾こうとするばかりじゃ上手く行かねえぜ」
「よくわからないんですけど……」
井倉は正直にそう訊いた。すると、アルモスは足元にボトルを置くと、ピアノの方に近づいて来た。
「もう1回弾いてみな」
井倉は頷くと曲を弾き始めた。男は井倉の背後に立ってそれを見ていた。
(何だろう。はじめはいやだったのに、もうアルコールのにおいがしない。それどころか、まるで森の中にいるような風が吹き抜けて行く……)
そう思った瞬間、男の手が弾いている井倉の手の上から強引に鍵盤を押し込んだ。
「何を……」
振り向く井倉にアルモスは続けろと言う。再び弾き始めると今度は左手で低い音を押す。それは不穏な足音が近づいて来るような響きだった。

(怖い!)
背後に立つ男の影が広がって部屋を覆い尽くして行くような恐怖を感じた。曲はまだ続いていた。そして、足音も続いている。
(逃げなきゃ……)
井倉は無意識にそう思った。怪物が目覚めてしまったのだ。
(このままでは踏みつぶされる……!)
危機感が募った。足音はどんどん近づいて来る。得体の知れない闇が迫っているのだ。井倉は加速した。
(速く! もっと速く……。弾き切ってしまえば……)
曲はコーダに差し掛かり、乱れた呼吸と疾風のように駆け抜けて行くメロディーと怪物を置き去りにして、井倉は最後の音を鳴らすと鍵盤から指を放した。

気付くとアルモスは少し離れた所でワインをラッパ飲みしていた。井倉は肩で息をしていた。
「不思議だな」
ふと呟くと、井倉は振り返って男を見た。
「何がだ?」
アルモスが訊く。
「はじめは、どうしてそんな事するんだろうと思ってました。曲を滅茶苦茶にして、僕を困らせて、まるで怪物みたいに……。本気で怖かったし……。でも、気付いたんです。あなたが入れて来た音はみんな森に繋がっている。つまり、ハンス先生が言っていたこの曲に……」
井倉は立ち上がるとじっと正面から男を見た。

「あなたは何者なんですか? すごいセンスだ。こんな繊細な曲に新たなイメージを加えて……まるで別の……」
井倉は、そこまで言うとはっとした。
「アレンジ……」
彼は慌ててピアノの椅子に座り直すと鍵盤を叩き始めた。最初の部分を弾き、それから、小節を飛ばして幾つかのフレーズを弾いた。
「そうか! これがアレンジ……」
彼はうれしそうに言うと何度も曲を弾いた。そこにアルモスがいることも忘れて……。
(出来るかもしれない。僕がアレンジする『ため息』の曲)
そんな彼を横目に見て、アルモスはワインを飲み終えると、黙って部屋を出て行った。


夕方5時にはハンスが帰って来た。
「ふう。外は焼けるように暑いです。彩香さん、日傘をありがとう。助かりました」
「いいえ。それは構いませんけど、ヘル バウメンはご一緒じゃありませんの?」
「あんな奴に付き合ってたら明日の朝まで帰れないですよ。ポーズがどうしたとか、ライトの加減が気に入らないとか言って何度も撮り直しさせてるです。カメラマンが気の毒でした。僕は自分の分だけ先に済ませて来たですよ」
「まあ」
彩香が同情するように頷く。

「僕、先にシャワーを使って来ますね。汗でビショビショなんです」
そう言うとハンスは階段を上がって行った。
その後を猫達が追って行ったが、階段の所から戻って来て彩香に向かってミャアミャア鳴いた。
「あら、まだフードの時間じゃないわよ」
彼女は一度ピアノの椅子に腰を下ろしたが、すぐに立ち上がって、地下室に向かった。

ハンスが帰った事を彩香から聞いた井倉は練習を終りにして冷たい麦茶を用意した。ハンスの分は蜂蜜入りだ。
「彩香さんも蜂蜜入れますか?」
「いいえ。結構よ」
彼女は答えたがどことなく元気がなかった。
(あの事を気にしてるんだろうか? ハンス先生が本当は人殺しだって……)
井倉はふと頭に過ぎった考えを振り払うように訊いた。
「ところで、アルモスさんはいつお帰りになったんですか?」
「え?」
彩香は怪訝そうに彼を見た。

「それ、何の事?」
「下で会ったんですよ。でも、僕ピアノに夢中になっちゃって、気が付いたらいなくなっていたので、てっきりリビングの方に上がられたのだとばかり思っていましたけど……。すみません。僕がお茶を出さなければと思ったんですけど、お茶はいいとおっしゃって、ワインをお飲みになってたので……」
しどろもどろに言い訳していると、彩香が言った。
「何言ってるの? まったく意味がわからないわ」
「だから、画家のアルモスさんが……」
「今日はヘル バウメン以来、お客様は誰もお見えにならなかったわよ」
「そんな……」
井倉は背筋に悪寒が走るのを感じた。ここを通らなければ地下には行けない筈だ。

「だって、確かに僕と話をした。ピアノの事もここに掛けられている絵の事も……」
しかし、彩香は首を傾げるばかりだ。
「アルモス・G・ガザノフは有名な画家なのよ。いつも美しい景色を求めて歩く放浪の画家。緻密で繊細な風景画には定評があって、滅多に手に入れる事も出来ない。そう。この森の絵はとても希少だわ。お父様も彼の絵を欲しがっていたのだけれど、オークションでも落札出来なくて悔しがっていたの」
「そんなに有名な人なんですか?」
井倉が驚いて訊いた。
「いやだ。知らなかったの? だから、もしガザノフ氏がここにいらしたのだとすれば、私もぜひお目に掛かりたいくらいよ」
「そ、そうなんですか?」
井倉がさっき見かけた男の風体からはとても想像出来なかったが、それよりも何故、そんな有名な画家がそこにいたのか。一体どうやって地下にやって来たのか知りたかった。

「あ、蜂蜜入りの麦茶! 僕、いただきます!」
ハンスがやって来てそれを飲んだ。
「甘くておいしい! 井倉君、もう一杯もらえますか?」
「はい」
井倉がお代わりを注ぐ。
「ところで、さっきアルモスの事話してたみたいですけど、彼と会ったですか?」
ハンスが訊いた。
「あ、はい。地下室にお見えになって……」
納得出来ないながらも井倉が答える。
「でも、妙ですわ。わたし、今日はずっとここにおりましたのに、どなたも見えませんでした。それなのに地下室にいらしたなんて、信じられませんわ」

「ああ。それは大丈夫なんです」
ハンスが言った。
「彼は自由に地下を通れるですよ」
「自由にって、でも……」
意味が理解出来なかった。
「これは内緒の事なんですけど……」
ハンスが声を潜めて言った。
「この家には秘密の抜け道があるですよ」
「秘密の抜け道?」
(そんな、からくり屋敷じゃあるまいし……)
井倉は耳を疑った。

「そう。僕やルドルフがヤバイ仕事しているので、いざという時のために確保してるです」
「ヤバイってその……」
「じゃあ、もしかして……本当に人を……」
殺した事があるのかと訊こうとした時、玄関チャイムが鳴った。

やって来たのは黒木だった。教授は汗を拭きながら言った。
「家では奥さんが例の生方響のCDを掛けてて……。どうもああいう音楽は苦手でしてね。急いで必要な物だけ持って戻って来たんですよ」
それを聞いた井倉は奥さんとの関係について少し心配になったが、黒木はそこにあったグラスに勝手に麦茶を注いで一気に飲み干すと続けた。

「確かに音は綺麗だが、余計なサウンドが多すぎるような気がするんだ。せっかく美しい旋律が聞こえたかと思うと、いきなりそれを破壊的な機械の音が壊して行く。それが幾何学的な立体を表現しているのだと奥さんは言うんだが……。私にはどうも理解し難いね」
「黒木さん、うがいと手洗い忘れてるですよ」
ハンスがテーブルを指で突いて言った。
「あ、いや。これは私とした事が……。申し訳ありません」
そう言うと黒木は洗面台に向かった。井倉はグラスを片付けようか迷っていた。その時、地下室に通じる扉が開いてアルモスが入って来た。

「よお! ハンス! やっと戻って来たのか?」
そう言うと彼はハンスの頭を鷲掴みにしてくしゃくしゃにした。
「もうっ! アルってばやめてよ」
慌ててその手をどかそうとする。その時、井倉は見てしまった。金髪だと思っていた彼の髪の下から一瞬だけ覗いた黒髪を……。

――彼はすべてを偽っていると言うの。髪の色も目の色も

「先生、その髪……!」
彩香も絶句したように口元に手を当てている。
「え?」
ハンスは慌ててずれた髪を直すと、井倉達を見てにっと笑った。
「ほら、井倉君達を驚かせちゃったじゃないか」